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トヨタのリコール問題と安全文化の構築
2010/02/03(Wed)
品質と安全で世界一になったトヨタ自動車が、「逆風」にさらされている。国際競争力の基盤となる「安全への信頼」が揺らいでいるからである。

米国や中国、欧州で、主力車種のアクセルペダル関連部品に絡む欠陥問題が続出し、大量のリコール(無料の回収・修理)だけでなく、生産・販売の一時中止という事態にまで発展した。トヨタ車全体の「安全神話」に対する消費者のイメージダウンが避けられない。トヨタのリコール問題はさらに深刻化して、米議会を巻き込んで社会問題の様相を呈している。

問題の部品は、アクセルペダルを安定して動かす部品(フリクッションレバー)で、形状と材質に問題があった。部品が磨り減った状態で水滴が付くと、摩擦が大きくなり、踏み込んだアクセルが戻りにくくなる。不具合になった部品は、米部品メーカーCTSから調達していたが、設計や品質管理の指導が甘かったと見られている。

小出しで後手に回るトヨタの対応からは、危機管理が見えない。トヨタの安全に対する姿勢が疑われても仕方のないほどまずい対応だった。安全の問題は、経営に責任がある。品質を支える安全技術力を軽視したコスト削減という企業経営そのものが問われているからだ。

要因のひとつに、トヨタの急速なグローバル化のひずみがある。米国での新車販売を急拡大させる中、コスト削減に向けて多くの車種で部品の共通化を進めてきたことにある。一つの部品に問題が起きると、リコール対象が爆発的に増えるようになった。07年に一度、問題がないと結論づけたが、早期に対応していれば、これほど大規模なリコール台数にならなかった。

安全の問題は、今回の欠陥部品にとどまらない。

米自動車保険業界団体の高速道路安全保険協会は、安全性に優れた2010年モデルの乗用車など27車種を発表したが、09年モデルで11車種だったトヨタ自動車が1車種も選出されなかった。今回の調査は、横転事故などを念頭に屋根の強度基準を厳格化したが、安全性や品質の高さを売りに、米市場で販売を伸ばしてきた「トヨタ神話」が揺らぎかねない結果となった。品質面では、韓国の現代自動車が日本の自動車メーカーを上回り始めている。

国内外の自動車業界の専門家らは、今回のトヨタの危機について、「起こるべくして起こった」という反応だ。トヨタの経営方式である「乾いたタオルからも絞り出す」という徹底した経費削減が行過ぎて、ついに度を超えてしまった。リコールが多発するのは、効率を追及しコストを優先するあまり、「開発プロジェクトでのコミュニケーション不足」があると指摘されている。

また今回のトラブルへの対応ぶりから見ても、GMを抜いて世界の頂点に立った自信過剰や気のゆるみもうかがえる。安全文化が欠如している。半年前に就任したトヨタの豊田社長は、世界一に急成長した姿を「身の丈を超えていた」と見て、利益や台数を追う戦略の転換を急ぐとしている。

事故を起こした企業に対する社会の眼は厳しい。事故を防げなかった原因は、経営者にあると見ている。企業のリスクマネジメントはその存亡に関わる重要な問題である。絶対安全はありえない以上、自動車に限らず、日本のすべて産業で安全文化の構築が競争力の生命線になる。だが、日本の安全文化は結果責任であるため、後でごたごたする。

安全文化が日本により先行している欧州では、安全対策の説明を優先する事前責任が一般的である。十分に事前に吟味し、責任処理を行なっている。設計者責任は事前にクローズしている。その後事故がおきたら原因追求を行なう。原因追求と責任は分けられている。

安全文化を構築する上で最も重要なのは、経営トップのコミットメントである。経営方針に掲げるだけではなく、経営判断のプロセスにおいて、その趣旨が一貫していなければならない。安全投資、組織設計、人材育成、技術伝承などにおいて、経営トップの一貫したコミットメントが必要である。
 
企業の寿命は30年といわれるが、現在の経営者は、短期的な業績を求められる。しかし、このような環境下にあってこそ、経営者が率先して「安全文化」の醸成に取り組むことで、長寿企業を目指していく姿勢が必要であろう。
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「失われた20年」が「失われた30年」に
2010/02/08(Mon)
日本は「失われた20年」がさらに続き、新たな「失われた30年」に突入した。先進国で日本だけがデフレ経済が続いており、物価が下落している。

物価が下落するのは、消費者物価全体の半分を占めるサービス価格が下がっているからである。サービス価格には賃金の要素が大きいため、物価の下落が進めば、賃金の切り下げに直結する。サービス価格の下落は日本だけの現象である。これをどうやって止めるのかが、問われている。

リーマンショック後の世界同時不況で、需要不足が顕著になり、35兆円も大きな需給ギャップがデフレになっている。このような状況下では、失業率が高止まりしたままで、非正規雇用者が打撃を受ける。明らかに供給サイドを強調する成長戦略だけでは不適切である。

デフレから脱却するためには、一刻も早く需給ギャップをなくすような政府・日銀によるマクロ経済政策(財政・金融政策)が必要である。日本を除く欧米の先進国は、金融危機による大きな需給ギャップを財政政策と金融政策によって完全に穴埋めしているからだ。

しかし、日銀はデフレと闘うべきなのに、金融政策だけでデフレ退治は難しいとし、需要喚起は財政政策だとしている。需給ギャップがGDPの8%もあり需要自体が不足しているときに、流動性を供給するだけでは、最終需要は盛り上がらず、物価は上がってこないため、デフレから脱却できないという。さらに政府の役割のほうが大きいし、金融政策の議論よりも成長戦略の方が先だというのが日銀の言い分である。

デフレ克服には、成長戦略、マクロ経済政策、さらに財政再建の戦略という三つの柱が重要であり、すべてが一体となった取り組みが求められている。

成長戦略というのは、難問であり、簡単に答えを見つけられるほど容易なことではない。まして少子高齢化における成長戦略は、かなりの難問である。考えてから走るのではなく、走りながら考えることが必要である。実際、バブル崩壊後に実施された成長戦略がことごとく失敗している。しかし、「失われた20年」で停滞している今ほど、真正面からの成長戦略が求められている。

鳩山政権は、昨年末に「輝きのある日本へ」と題する「新成長戦略の基本方針」を打ち出した。その基本方針は、従来の公共事業による成長(公共事業依存型)や小泉・竹中構造改革による供給サイドの生産性向上(市場原理主義)にかわる第三の道として、地球温暖化や少子高齢化などの課題解決に取り組むことで新たな需要を創出していくというものである。そのために「環境・エネルギー」「健康(医療・介護)」「アジア市場の内需化」「観光・地域活性化」を重点4分野とし、国民生活向上に主眼をおいた新市場や雇用の創出を進めるとしている。

野心的な成長戦略であるが、果たして、本当に実現するのだろうか

民主党の成長戦略は、自民党政権が繰り返し打ち出してきた成長戦略と本質的に変わらず、各省庁のビジョンをただ束ねてものに過ぎない。各論になると、その具体策や工程表は先延ばしのままである。

新たな成長産業を育てるには、日本固有の問題が多い。先ず、財政赤字で、新たな成長産業を育てる財源をどこから持ってくるのか、また少子高齢化社会を乗り切る上で、子ども手当や高校の実質無償化、崩壊寸前の国民医療の立て直しなどが急務であるが、それらの政策を支える財源が必要である。

政策を実行するための財源を確保しようとしても税収が不足している。それをカバーするために国債を増発すれば、償還負担が重くなる。その結果、低成長に至る。デフレはこの悪循環を慢性化させる。

大幅な財政赤字は、圧倒的な税収不足が原因である。消費税増税や高額所得者の累進課税などを前提とした社会保障制度改革を打ち出す方が、有効な景気対策であり、鳩山首相の言う「人間の幸福を実現する経済」への近道になる。
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サリンジャーと大人になりきれない若者たち
2010/02/12(Fri)
世界中の若者の心をつかんだ永遠の青春小説『ライ麦畑でつかまえて』で知られる、謎に包まれた伝説的作家J・D・サリンジャーが亡くなった。

『ライ麦畑でつかまえて』は、自意識過剰で大人になるのが嫌という若者像を初めて描いた作品であった。この本が出版された1951年は、マッカーシズム(赤狩り)がアメリカ社会に吹き吹き荒れていて、「自らが標的となること」に対する恐怖が現れていた時代であった。弱い自分を保護してくれる存在がいないと感じたサリンジャーは、主人公ホールデン・コールフィールドを通して、せめて自分は「広いライ麦畑で遊んでいる純真無垢な子供たちが、欺瞞に満ちた大人社会という崖下に落ちないように守ってあげるキャッチャーでありたい」という願望を語った。

ホールデンは大人社会の欺瞞と偽善に耐えられずに社会を拒否し、うまく大人としてのアイデンティティーを確立することができない。誰しも大人への過渡期に経験する社会への不信感、反抗、精神的不安などの戸惑いを通して、自分が本当の自分として生きてはいないという人間の孤独や疎外感が、この作品の主題であった。

主人公ホールデンの考え方や行動は、深い影響力を伴って社会に浸透していった。1960年代にはヒッピーが社会からのドロップアウトにも意義があることを主張し、社会に対して覚めた目で見る若者たちが多く登場するようになった。小説に描き出された反社会的、反倫理的な生き方が、世界中の若者のライフスタイルとなっていった。

若者たちは、古い秩序の縛りから自由になり、主体的に活動するようになると、子どもから大人への移行する様式も多様化した。

しかし、バブル崩壊後、日本経済が長期的停滞に陥って以来、大人への移行のあり方が激しく変化し、ニートやフリーターが生まれた。移行が長期化するに伴い、親への依存も長期化して大人としてのアイデンティティーの確立が一層困難となった。ピーターパン症候群とも呼ばれるようになった。

大人になりきれない若者たちは、束縛されている社会の中でモチベーションがあがらないまま、不平や不満を募らせ、苦しみもがき生きている。彼らは、同じであることを求める社会の中で、人と違いたいと思っているため、服従することに耐えられなくなっている。外の世界が非情で危険なら、家の中に閉じこもっている方が安全と考える「引きこもり」の若者が増えるようになった。

格差社会の中で、社会的に疎外され親に保護されて生きているニートや「引きこもり」の若者が、日本の現代の病理を映していると言える。

戦争体験による後遺症から社会との接触を絶ったサリンジャーも、「引きこもり」であった。「引きこもり」の若者たちとホールデンやサリンジャーには、共通したメンタリティが見られる。

だが、同じく「引きこもり」であったニーチェは、『ツァラトゥストラはこう語った』で、汚れだらけの世の中に裏切られても、強い意志で反撃宣言をした。「人間は不潔な河流である。汚れることなしに不潔な河流を呑みこむことができるために、我々は大海にならねばならない」と、人間は弱い存在であるため、強い意志で乗り越えられないといけない存在なのであると語っている。これは弱さを許さない大人の世界である。

若者たちは、こうした弱さや失敗を許さない大人の社会の影響を強く受けており、自分の弱さや未熟なところを他人に見せることを極度に恐れ、いい人を演じていかざるを得ない。それができない若者は、不登校、ニート、引きこもりになったりする。こうした若者には、親身になって関わっていくことが必要だ。そのためには、格差社会をつくった大人たちがまず、ゆとりをもって他人を思いやることができるような懐の深い社会にしていくことが先決ではないだろうか。
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格差社会をなくすには、子ども手当よりベーシック・インカムを
2010/02/18(Thu)
民主党の目玉政策である「子ども手当」が、財源不足で満額支給を見送る可能性が出てきた。

そもそも、子ども1人に月額2万6000円の高額支給は、何を根拠に決められたのだろうか。当初は、配偶者控除と扶養控除の廃止で増える税収を子供の数で割った1万6000円を支給する、というのが民主党の主張であったにもかかわらず、選挙の集票目的に小沢幹事長の「鶴の一声」で1万円引き上げられたとも言われている。

防衛費や文部科学省予算に匹敵する年間5兆円にも及ぶ巨額な財源をどこから確保するのか。これだけの巨額の財源があれば、「子ども手当」以外に優先してやるべき大事な政策が実現できたはず。

「子ども手当」には問題点が多く、相変わらず賛否両論が入り乱れている。

「子ども手当」という名前にかかわらず、実態は「大人手当」である。現金支給してしまうと、本当に子供のための費用として使われるのか不明で、親がパチンコや遊興費、株式投資,貯蓄、住宅ローン、借金返済などに浪費してしまう可能性がある。景気対策だと言っても、半分は貯蓄に回ってしまう。その分、保育所の待機児童対策などに充てる方がより有効な経済政策である。

「子ども手当」は、所得制限を設けず、高額所得者にも支給されるため、子どものいない世帯や既に成人した世帯には不公平感を与える(現行の児童手当には所得制限がある)。また扶養控除や配偶者控除などがなくなると、家計が苦しくなる。さらに支給対象を親などに限定しているため、両親がいない子には支給されない(後になって、安心基金という名目で支給されることになったが)等々の問題点が指摘されている。

上記に加えて、「子ども手当」で増えた赤字国債を負担するのは、将来世代の子どもたちである。つまり、子どもに借金させて、親に生活費を支給する「大人手当」である。赤字国債を発行してまでもマニフェストを実現するのは本末転倒で、民主党が主張する「税金の無駄使い廃止」の理念にも反する。

だが他方で、現金給付型の「子供手当て」には、所得に関係なく定額支給という点で、「ベーシック・インカム(最低生活保障)」的な側面がある。

「ベーシック・インカム」は、国が個人全員に必要最低限度の所得(現金給付)を無条件に保障する新しい形の社会保障である。貧しい人にお金を与えると、貯金せずにすぐに消費に回るから、経済が活性化する。個人に与える「ベーシック・インカム」は、減税より経済効果がある。

現行の社会保障制度が機能不全に陥っている以上、民主党が、「子供手当て」とか、社会保障改革を進めるのであれば、いっそのこと現役世代にも現金給付できる「ベーシック・インカム」をやった方が良い。

「ベーシック・インカム」を導入すると、税と社会保険が統合され、配偶者控除や扶養控除など現行の各種の所得控除が不要となり、生活保護、失業給付、基礎年金、児童手当など、社会保障の現金給付部分が全部、「ベーシック・インカム」に置き換わってしまう。そうなると、福祉的制度や行政の大半は必要なくなり、行政コストも減って小さな政府になる。これまで企業が負担していたセーフティネットも、国によって「ベーシック・インカム」という形で提供されるようになれば、企業は、社会保険の負担から解放される。

「ベーシック・インカム」によって最低限の生活が補償されるなら、失業もさほど怖くないし、多様な場所で多様な暮らしができ、農業など職業や人生の選択肢が大幅に広がる。

疲弊した地方経済にお金を回すために公共事業が必要だが、「ベーシック・インカム」による現金給付なら、わざわざ必要のない橋やトンネル、高速道路を建設する必要が薄れるため、「無駄な公共事業」の抑制にもなる。

今の生き方の多様化を考えると、「世帯単位」とする現在の各種税制や社会保障制度などは、個人の生活に不当に介入している。その点で「ベーシック・インカム」は、「世帯単位」でなく、「個人単位」を対象としている。

格差のない社会をつくるには、新しい社会保障の形である「ベーシック・インカム」の導入が不可欠である。
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「古い公共」より「新しい公共」を
2010/02/24(Wed)
NPOというと、日本では、善意と熱意に溢れる人たちが手弁当で集まって行う零細事業というイメージしかない。

NPO活動や市民活動団体を担う市民セクターは、小さな団体がほとんどで、むしろ個人やサークル活動に近く、非常に狭い活動範囲で行われている。大半のNPOは、常勤スタッフを全く抱えておらず、女性や高齢者が中心に行われている。また内向きの組織であるため、こうした市民セクターの閉鎖性を問う声もある。

一方、NPO先進国の米国では、大学、病院、教会、私立学校、美術館、保育園、市民活動団体やボランティア団体までが含まれており、100万を超えている。しかもこうしたNPOは、正規職員に給料を出しながら、さらにボランティアも雇用している巨大組織もある。

また寄付文化が根付いているため、政府の補助金をはじめ、大きな財団がNPOなどに資金援助するなど、市民活動が活発である。非営利部門を担うサードセクターの歳入は、国家予算に匹敵するほどである。市民セクターが活躍する公益市場があり、これがセーフティーネットになっていたからだ。米国のGDPの1割がここから生み出されている。

しかし寄付文化もなく、政府の補助金や大きな財団からの資金援助もない日本では、NPOが大きく活躍できるような土壌がない。個々のNPOの資金源が極めて脆弱であるため、自助努力だけでは限界がある。NPOが寄付金を独自で集めようとしても、寄付する法人や個人が税制上の優遇を受けられないため、寄付が集まらない。

そもそも、サードセクターのNPO活動は、何のために必要とされているのか。第一セクターの政府・行政とは、どう違うのであろうか。

政府・行政は、平等、公平、中立、均等を重視した政策を行うが、それだけでは多様化する地域市民のニーズに対応できない。そのため、地域の課題は地域で解決するという意識の高まりとともに、多様性、創造性、個性、先駆性の価値観のもとに行動する特定のNPO活動に対する社会の期待がある。つまり、政府セクターやサードセクターの互いの長所や機能を生かし、弱点を補完し合っていく必要がある。政府とNPOは、互いにパートナーとして協働する関係にある。

高齢化社会や格差社会に広がる不安に立ち向かう「新しい公共」サービスの担い手として、NPOの役割が重要である。だからこそ、NPOの資金基盤の拡充に本格的に取り組む必要がある。

日本には、1500兆円の個人金融資産があるのだから、相続税や贈与税の軽減、全額税控除の導入など大幅な寄付税制の拡充が可能なはずである。

しかし寄付税制の拡充に対して、財務省は「財政民主主義」という省益を盾に抵抗している。NPOに寄付したお金で、公共的な業務をNPOが進めることは、「財政民主主義」に反すると主張している。つまり、全部税金という形で一旦国庫に入れて、それを国会議員が分配するのが「財政民主主義」だという。

だが公の分野ですべての公務員が生産的な仕事しているとは、国民は誰しも思っていないし、それどころか、財務省は必要のない天下り団体に無駄な税金の垂れ流しを許しており、とっくに財政的に民主主義が崩れている。

むしろ寄付行為を通じて、国民が直接的に公を担う特定のNPO団体を支援した方がより民主的である。初めから使い道が明らかである寄付金の方が、何に使われるのか分からない税金よりも、公共の充実度が高いはずである。

官がやる「古い公共」には、利権がらみが多い。その官の補助金でNPOは「古い公共」の下請けになっている。だから今、利権を超えて市民が支える「新しい公共」が、求められている。

「新しい公共」は、官の補助金に依存してはいけない。社会に役立つNPOの公益活動を支援するためには、国民の税金の一部が、政府に経由することなく、寄付に回るように寄付税制の大幅な見直しが必要なのである。

つまり、官中心から民間中心の「新しい公共」ルートを拡大するよう、寄付税制を再設計し、市民セクターにより多くの民間資金を還流させることができれば、「古い公共」を縮小し、「新しい公共」を拡大させることにつながる。

NPOに理解がある民主党は、国が税金を集めて分配する割合を減らし、個人の寄付を拡充する税金の民営化((補助金から寄付金への転換))を推進する政策を掲げている。

鳩山政権は、NPOに政府や独立行政法人などに代わる役割を期待しており、政府税制調査会が4月を目処に、NPOに対する寄付控除の拡大を検討することになった。当然の流れと言える。
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